それなりの雑記コラム

若いなりに思ったことを書くコラムです。

コラム #3 「グローバル化という言葉に思う」

先日、「高等学校教育で日本史が必修でないってどうなの?」とつぶやいた。もうちょっと考えが深まっているのでつぶやこうと思ったら、とても140文字で収まる内容ではなかったので、こんな時こそBlog。というわけで、かなり社会的な内容であるし、長いが、まあ、スナック感覚で読んでほしい。

では本題へ。

現在の日本の高等学校の指導要領では、社会科に関していえば、世界史が必修であり、日本史、地理は選択履修となっている。また、これで受験ということを考えれば、特に理系の生徒は、コスパ的な面もあるのであろう、多くの人が「地理」でセンター試験を受けていくことになる。

何か恐ろしいと思わないであろうか?現行の教育課程では、日本史を履修せず卒業できるのだ。この国は、自国の歴史が選択制であるのだ。何か身震いしてしまったのは、僕だけであろうか?

僕は昔から、これが疑問だった。いま、僕は日本史で生計を立てようと考えている。その決心がついたころから、さらに不思議に思うようになったのだ。

実際、欧米人の方に言わせれば、大変珍しい話なようである。自国の歴史をろくに知らない人間、それは自国のアイデンティティが欠落している人間と捉えられて仕方ないのだという。そりゃあ、そうだろう。

今、グローバル化、世界に飛び出せ、国際化だ、と頻りに叫ばれているのは論を俟たない。日本だって例外ではない。それなのに、そういう体制でいいのであろうか?

今でこそ、日本の歴史は僕は大体は頭に入っている。しかしそれは、大学受験でそれなりに点を稼げるレベルでしかない。つまり、基礎の基礎しかないわけだ。それすらないのだと…。そう。僕もない時があった。その時、「日本ってどういう国ですか?」「どういうことをしてきましたか?」「どんな誇りがありますか?」と聞かれて、かつては全く答えられなかったのだ!日本人としてのアイデンティティがまったくもって欠落している状態だったといえよう。

今は、ある程度は言える。それについての言及は、今は差し控えよう。なぜなら、それを深めてから、しっかり申し上げたいからである。だから大学で日本史を学ぼうとするのだ。

現代社会は今、様々に問題を抱えている。その中にあるのが、過去の戦争での遺恨だとか、植民地問題、領土問題、民族問題。ナショナリズムに大きく問題がのしかかっている。そんな中で、他国と議論する機会があるならどうだろう。自国の歴史や過程が欠落している人間は、只々無根拠に主張するか、相手の意見にひたすら追従するだけ、どのみち軟弱な姿勢しか取れないのではなかろうか?こういう日本人は、余りに恥ずかしくないであろうか?

さて、そういうことを気にしていると、こういう記事を見つけた。

www.sankei.com

様々な意見があろうが、僕はこれに仄かに期待している。日本の姿、先程から述べている姿勢を身に着けるためには、せめて近現代くらいは学んでおいた方がよかろう。日本が開国し、列強の仲間入りを果たすが、やがて煉獄の戦争に足を踏み入れ、果てる。そこからの復興…。世界と切り離せない国になる過程を描いた時代なのだ。

日本史。それは何のために学ぶものか。僕は、「日本人たるために」学んでいる。先人が命を懸けて下した決断を学び、良きところは取り入れ、失敗は繰り返さず。結局、歴史というのは「過去を学ぶこと」に本質はなく、「過去を学び、そこからよい未来を作っていくこと、過去の過ちから現在をよりよく構築すること」それこそが、結局は歴史学の本質なのではないか。僕はずっとそう信じ続けている。

今からでも遅くない。日本の、我が国の歴史に興味を持ってほしい。そうすれば、なんとなくでもこの国の姿や魅力が、分かってくるはずだから…。